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【人生食あり】フランス料理 欧化政策から庶民へ


明治36年に帝国ホテルで開かれた天長節夜会の準備風景=村井弦斎『食道楽』のさし絵

【人生食あり 文明開化の味がする】


 西欧諸国に追いつき、追い越せ-。早く近代国家の仲間入りをしようと、国を挙げて必死だった明治初期の日本。不平等条約の改正のために、当時の政府首脳は、外国の賓客をもてなす儀礼を重視し、社会のさまざまな分野で西欧流を取り入れる欧化政策を行った。

 それは料理も例外ではなかった。

 早くも明治6年9月8日には、皇居の午餐(ごさん)会でイタリア皇帝の甥を西洋料理でもてなした記録が残る。「以後は外国の賓客に対する接待は、すべて西洋料理(フランス料理)で西欧の礼式に従って行われることになり(中略)この日は西洋料理が日本の正餐となった日である、と言ってよいのではないだろうか」(児玉定子著『宮廷柳営豪商町人の食事誌』)

 血や肉を穢(けが)れとして忌んできた日本古来の価値観の中で成人した明治天皇が、肉中心のフランス料理にどのような感想を持ったかは想像するほかないが、明治維新からわずか5年で国家儀礼の場に西洋料理を採用したことに驚かされる。強烈な中華思想のもと、独自の礼式を守り西欧諸国の侵略を受けていた清国の惨状が、明治国家首脳の頭の中にあったのだろうか。


 明治10年代に入ると、天長節(天皇誕生日)の晩餐会に外国公使が招かれるようになり、16年に東京・内幸町に落成した鹿鳴館では、夜ごとに舞踏会が開かれ、華やかな鹿鳴館外交の舞台になった。26年、鹿鳴館で開かれた天長節夜会では、隣にあった帝国ホテルが立食パーティーの料理を請け負った。帝国ホテルは同年開業したばかりの日本で初めての本格的な社交場を備えた大型ホテルで、開業当初からフランス料理をメーンにしており、翌24年からはしばしば天長節夜会が帝国ホテルで開かれるようになった。

 36年から報知新聞に連載された村井弦斎の小説『食道楽』は、「一千余名の来賓」があった同年の帝国ホテルでの天長節夜会を次のように描写している。「…会食の時間となれば賓客は三々伍々幾多の卓に倚(よ)って祝杯を挙げ二十余名の給仕人燕尾服にて食卓の間を周旋す。名にし負う一年一度の夜会主客陶然として歓声場裏に和気の洋々たる事春の如し」



 『食道楽』には、前菜からデザートまで13のフランス料理が書かれている。明治の紳士淑女の味わった料理は今でも食べられるのか。帝国ホテルに問い合わせると、明治23年12月8日の夜会メニューに載っている「小鴨 ロッチー ヲ クレソン(小鴨蒸焼クレソン添え)」と同じものがレストランにあるという。

 出されたのは「鴨胸肉のロースト オレンジソース」。クレソンの代わりにフライドポテトとサツマイモのマッシュポテトが付く。じっくり加熱してジューシーに焼き上げた味はどことなく懐かしく、文明開化の味を思わせる。「ジビエ(狩猟鳥獣肉)のテリーヌ」「コンソメ」も明治時代からの料理でくせのないオーソドックスな味だ。

 宮廷料理だったフランス料理も、時を経て庶民も気軽に食べられるようになった。いい時代に生まれたことを感謝しなければ。(栫井千春)

産経新聞より
 そうだねぇ。いい時代に産まれているよっ。
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